「海の壁」の物語
ハンセン病カヤック紀行(1)岡山長島・ハンセン病の島をめぐる

寺園敦史

 

海に壁があります。
海に柵があります。
歩いて渡れそうで、わたれない
海が目の前にあります。
……
島の住人は、いまも切々と
壁の海を歩きたいのです。
ほんとうの
「人間回復」の橋を渡って
歩きたいのです。
(さかいとしろう「海の壁」1980年)

岡山県南東部、瀬戸内海に浮かぶ小島・長島。面積3キロ平米あまり。日生(ひなせ)や牛窓(うしまど)にも近いこの島は、瀬戸内海をフィールドにしているカヤッカーにとって、なじみの島だろう。ツーリングの途中、この浜辺で休息したり、海水浴をしたことのある人も多いに違いない。

だが、長島はハンセン病の療養所の島として、日本の近現代史にその名を残している。1930年、この島に国立ハンセン病療養所・長島愛生園(あいせいえん)が開園して以来、1988年、島と本土とを結ぶ橋が架かり陸続きになるまで、絶対隔離・終身隔離政策を採る日本のハンセン病政策の象徴的な場所だった。

わたしは、架橋後から数十回この島を訪れているが、はじめてフォールディングカヤックを購入したのを機に、かつてこの島へ収容された患者たち同様、海をわたって訪れてみた。

8月のある日、京都からJRを乗り継ぎ日生まで行き、そこから日生諸島間を運行する連絡船で鴻島(こうじま)へ渡る。桟橋近くのちいさな浜で、ひとり乗りの折りたたみ式カヤック(バタフライカヤックス製クルーソー460)を組み立てて長島へ向けて出艇する。この日も猛暑日。日差しはきついものの海に出てしまえば、暑さはそれほどでもない。4キロあまりの穏やかな海をのんびりと進む。


       鴻島の出艇地。正面は頭島。

すぐに意外な情景に出食わした。長島北側沖で、何台もの水上バイクを見かけたのだ。チューブボートを牽引させて遊んでいる人もいる。療養所の管理が及ばない長島東部には小さな砂浜が何か所かあるが、そこではキャンプを楽しんでいる家族連れも見かけた。このあたりはフェリーや連絡船航路から外れるため、格好の遊び場となっているようだ。


       長島で海水浴を楽しむ人たち

1930年11月、長らく無人島だった長島の中央部に国立のハンセン病療養所第1号として長島愛生園が開所。定員400名。初代園長に就いた光田健輔(みつだけんすけ)氏の信念=ハンセン病患者の強制的な終身隔離政策を実現する施設として、離れ小島の長島はその条件を満たしていた。1938年には、台風被害で壊滅した大阪の療養所が島の西部に邑久光明園(おくこうみょうえん)として再建され、長島は文字通りハンセン病療養所の島となる。

以後、施設運営維持のため患者に強制した重労働、職員による虐待、堕胎・パイプカットの強要など違法な外科手術、慢性的な食糧不足、外部との連絡の制限など、戦中から戦後直ぐをピークに、この隔離された島の中では社会に知られることもなく、数々の人権侵害事件がくり返されていくことになる。

鴻島から出発したカヤックは1時間足らずで長島に到達。この日はそのまま愛生園内で泊まり、旧知の入園者のみなさんと語り合う。

翌朝6時きっかりに再出艇、島を1周してみることにした。まず長島中央部南側に残る小さな桟橋に向かう。愛生園開所の翌年3月27日、収容患者第1陣81人の上陸地点である。彼らは長島近隣の住民とのトラブルを避けるため、大阪より海路やって来た。夏の明るい朝の日差しのもと桟橋の前でしばし停泊、79年前死ぬまでこの離れ小島に閉じ込められることを覚悟した81人の圧倒的な絶望感を思う。


       患者第1陣が上陸した桟橋

続いて桟橋の東隣にある断崖絶壁にカヤックを滑らせる。高さ20メートルほどか。岩の壁が入り組み洞窟状になっている。カヤッカーにとって漕ぐ楽しみを感じさせてくれるスポットだが今回ばかりは違う。ここは園内では自殺の名所として知られる崖なのだ。下は岩礁地帯。落ちればまず助からない。愛生園入所者Uさんによると「知っているだけで51人がここから飛び降りた。死にきれなかったのは3人のみ。うち一人は再び飛び降りて死んだ」という。


      大勢の入所者が身投げした崖

振り返ると20メートルほど沖に手影島の鳥居が見える。1935年に建立された長島神社である。光田園長の手によるその鎮座祭文には「隔離政策の推進により患者撲滅達成の日が早く来ますように」との趣旨の言葉が記されている。ただ患者の死を願ったこの鳥居は、身投げ者の目にどう映っていたのか。


          患者撲滅を願って建立された長島神社。満潮時長島と陸続きとなる

次に、長島西端の本土とを結ぶ邑久長島大橋をめざす。両者を隔てる距離は狭いところで30メートルほどに過ぎない。泳いでも楽に渡れそうに見える小さな海峡だ。実際、退所や外出の自由がなかった数十年前まで、多くの患者が夜の闇にまぎれ、この瀬溝の海峡を超えて逃走した。だが、時期によっては潮の流れが早く、目の前の本土にたどり着けず流されてしまった逃走者も少なくないという。カヤックはそこを静かに進み、そして橋をくぐる。


「人間回復の橋」と称された邑久長島大橋。本土の距離は30メートルほど

架橋運動は、世論の後押しや関心を集めることも少なく、ほとんど入所者だけの力で国を動かし、達せられた。冒頭引用した詩は、孤独な運動のさなか、愛生園入所者の一人が社会に対して行った静かな異議申し立てだった。

当初、この橋は「人間回復の橋」となることを期待されたが、現実には、入所者個々と社会との関係を基本的に変えることなく、単に島が陸続きになっただけだった。20年以上経った今も、島の住人の隔てられた日常はさほどは変わらずにいる。すぐ近くにマリンスポーツに興じる人たちがいるというのに、この島は、いつ来ても静かだ。


著者
フリーライター 寺園敦史