逃れの道 沖縄・屋我地島
ハンセン病カヤック紀行(2)寺園敦史

●屋我地からジャルマ島へ


屋我地島。橋のたもとの出艇地。中央に見える小さな島はジャルマ島

奥武島(おうしま)からの橋を渡り切ったところにある屋我地島(やがじしま。沖縄県名護市)の小さな砂浜からカヤック(バタフライカヤックス製クルーソー460)で沖へ向かう。この日まずはじめにめざしたのは、出艇地の浜から南西約500メートルのところにあるごく小さな無人島である。Googleマップや市販の地図帳にはその名前さえ記されていないが、地元ではジャルマ島と呼ばれている。


ジャルマ島

沖縄でも本格的な海水浴シーズンはまだとあって、海上には他にだれもいない。この大海原に独りぼっち、と実感する瞬間こそ、シーカヤックならではの魅力だと思う。低気圧が接近中ということで、曇り空、ときおり強い風、波に出合ったが、海況はおおむね安定していた。

難なくジャルマ島到達。ひどく暑い一日だった。だが、島の様相が肉眼ではっきりとらえられるようになるにつれて、寒々とした気持ちがわきおこってきた。「マジかよ。本当にこんなところで何十人もの人間が暮らしていたのか」。何度もそうつぶやかずにはおれなかった。

1935年6月27日夜、ハンセン病患者15人が、沖縄本島側の仲尾次(なかおじ)海岸からひそかにこのジャルマへ渡った。彼らは同じ名護の屋部(やぶ)地区にある患者居住地で生活していたが、その前日、ここがハンセン病救護施設として拡張されるといううわさが流れ、興奮した一般の住民による襲撃を受けた。住民は患者たちの住居を焼き払い、即刻地区から退去するよう迫った。生命の危険を感じた患者たちは、別の場所に移動してもそこでまた同様の迫害を受けることを予感し、やむなく無人島ジャルマに集団移住することを決断したのである。

しかし、ジャルマには水がなく、そこでの生活は困難を極めた──ということくらいはわたしも事前に調べていたので知っていたつもりだったが、いま目のあたりにする島の姿は想像をはるかに超えていた。問題は水だけではないのだ。水が出なくても、毎日明け方までに本島にわたり川の水をくんでくることで間に合わすことができる。だがたとえ水を確保できたとしても、この島は人間が住めるような環境ではないのだ。


ジャルマ島の洞窟

島自体約300坪の広さで、平地は100坪ほど。全体が岩場で木が繁り小屋さえ建てられる場所がない。干潮時になると海面から砂州が現れ多少の平地ができるものの、そんなところで寝起きするわけにもいかない。おそらく患者自らが掘ったと思われる浅い洞窟がところどころあり体を横たえることくらいはできそうだ。だが、それもせいぜい雨風をしのげる程度でしかない。

キャンプで一晩過ごすくらいなら楽しいかもしれないが、とうていこの島で、しかも手足の不自由な病人の集団が生きてゆくなんて不可能だ。真夏の沖縄の暑さをどうしのいだのか。台風のときどこに避難したのか。なにより衛生状態の善し悪しが病状の進行に影響を与える病気なのに、風呂はもちろん、おそらく体を満足に拭くこともできずにどうやって耐えることができたのか。

しかし、ジャルマには初上陸から半年後にこの島を去るまでの間、新たに何人もの患者が各地から救いを求めて逃れてきた。多いときで子ども3人を含め40人を超えたという。うち命を落としたのが2人。死者2人というのは奇跡としか思えない。

患者たちのリーダーであり、キリスト教の伝道者でもあった青木恵哉(けいさい)氏は1958年に出版した手記『選ばれた島』(新教出版社)の中で、ジャルマでの暮らしをこう書き残している。

「不思議なもので、こんな誰も顧みないところでも住めば都である。いや人に顧みられないというところ自体がわたしたちにとっては最良の条件なのである。文句をいうものがないということは何よりも嬉しいことであった。それこそわたしたちに神の備え給う唯一の場所のような気さえした」

1907年制定の法律第11号「癩予防ニ関スル件」以降、日本各地に公立、国立のハンセン病療養所が設立された。療養所はいずれも離れ小島など辺境の地に建てられた。強制隔離された患者にとって、海は、自らと社会や肉親・故郷の間を引き裂く壁となった。しかし、ジャルマの病者らにとって、海は隔てる壁ではなく安心を保証してくれるシェルターだった。沖縄では、そこまで彼らは追いつめられていたのである。

●ジャルマ島から大堂原へ


屋我地島北端の大堂原

次にわたしがクルーソーで向かったのは、屋我地島の北端・大堂原(うふどうばる)である。大堂原は、青木氏らがジャルマを捨て、最後の安住の地として向かった場所だ。屋我地島沿いに羽地(はねじ)内海を北上、島の東側のような透明度には欠けるが、途中岩山が連なる一帯、空中回廊のような古宇利(こうり)大橋など、変化に富む海域を進む。

ジャルマ島での暮らしをはじめた同じ年の12月27日夜、青木氏ら患者14人はまたも夜影にまぎれてジャルマを脱出し、屋我地島大堂原に上陸した。その2か月前、鹿児島に新たに設立された国立ハンセン病療養所に、ジャルマから26人が収容されていたが、いずれも比較的軽症な患者たちだった。後に残された重症患者(体が不自由)たちだけでは、もはやこの島での生活は限界だと判断したのだろう。

大堂原には、青木氏が独自の保養所建設を夢見て、かねてよりひそかに購入していた土地があった。上陸後すぐに近隣の住民が追い立てにやって来たが、患者たちは黙って座り込み、一歩も動かなかった。青木氏ひとりが、追い立てる住民の前に立ち、「火で追われてジャルマにやって来たが、あそこでは生活できない。ここを追い出されたらわれわれは行くところがない。助けてくれ」とうったえた。

住民側はあくまでも立ち退きを要求したが、患者たちは無抵抗の座り込みを続け、なし崩し的にここで生活することを認めさせることに成功した。大堂原には水も豊富にあり、農地も十分にあった。医者も看護師もなく、自給自足の生活とはいえ、ようやく安住の地にたどり着いたのである。

大堂原は3年後の1938年、国立ハンセン病療養所・国頭愛楽園(現沖縄愛楽園)として整備される。本土の療養所はどこも権力の手により強制隔離を目的に建設され、患者を強制的に収容する施設だったが、愛楽園は、患者自身が自らの安全のためにつくりあげたコミュニティーを母体に誕生したわけである。

しかし、安住の地を手に入れたかに思えた患者たちだったが、その後の太平洋戦争において、おそらくジャルマ島での生活よりはるかに残酷な運命に見舞われることになる。


青木恵哉像

大堂原の洞窟と井戸

わたしがカヤックから見た大堂原は、空中回廊古宇利大橋をくぐったすぐ先にある小さくて美しい砂浜の横にあった。上陸すると、患者たちがはじめに掘ったという小さな井戸が保存され、その横には青木恵哉氏を顕彰する碑があった。さらに愛楽園で亡くなった入所者の納骨堂も立っている。ちょうど入所者の関係者という方が3人、納骨堂で祈りをささげ、突端から古宇利大橋をながめていた。


大堂原から古宇利を見る

【メモ】屋我地島へは名護市中心部から車で15分弱(バスもあるがとても不便)。奥武大橋のたもとに無料駐車場があり、ビーチに降りられる階段もある。木陰もありカヤック組み立ても可。近くの海水浴場には飲み物の自動販売機はあるが食料は販売していなかった(海水浴場からの出艇は不可)。島の周囲は変化に富んだ景観だが、海水の透明度は東側が断然高い。古宇利大橋のたもと(屋我地側)では、大堂原貝塚と呼ばれる6500年前の遺跡が発掘され小さな公園になっている(無料駐車場もある)。(2011年5月23日現在の情報)