タスマニア島
このオーストラリアの旅は、ソーラーパワービークルの可能性を試す旅であると同時に、自分自身の可能性を試す旅でもあった。
僕にできることは何なのか?これからどんな生き方をしていくのか?
タスマニアに期待していたことは、僕が興味を持っているカヌー作りに関して、何か得るものがあるのではないかということだった。
そんな期待を胸にタスマニアに降り立った。
「この穏やかな雰囲気は何だ!?」
Devonportの街の中心通りを歩いていた僕は驚いた。
街中にはゆったりした音楽が流れ、人もゆっくりと歩いていて、僕も気持ちが良くなっていくのだった。トランペットを吹いてBusking(町で芸をしてお金を稼ぐこと)している人を見かけた。天気もよい。
「やるなら今しかない」
メルボルンの図書館で作っておいたソーラーバイシクルに関するパンフレットを20枚コピーし、弾き語りをする場所を探す。
太陽電池出力のみで車輪を回し、ソーラーパワーのアピールをするためには、前輪を持ち上げる必要がある。なかなかいい場所がない。ようやく見つけた場所は『自転車駐輪禁止!!』マークのまん前だった。ちょっと気が引けるが、自転車駐輪禁止マークの看板の支柱にひもをかけ、前輪を持ち上げた。バッテリーを切り離し、アクセルを調節して、最大出力に合わせた。
勢い良く回転する車輪に後押しされ、僕もギターを取り出し、心を決めた。
僕の好きなスピッツの曲を弾き語りし始めた。恥ずかしくてしばらくの間、目を閉じたまま歌った。
「チャリン!」
どのくらい時間が経ったのだろうか?黒こげの汚いなべにコインが音を立てた。目を開けると、おじさんが何も言わずにコインだけ入れて通り過ぎていった。僕は心の中で、「Thank you」とつぶやき、歌を歌い続けた。おじさん、おばさん、子どもに人気があった。時々集まった人に「Please Make Shadow!!」と太陽電池上に影を作ってもらう。天気がいいこの日は、はっきりとモーター回転に変化が出て、いいアピールができた。建物の影で車輪が回らなくなった夕方まで続け、海岸まで走った。
稼ぎを計えてみると、$12・15。家族や友人、8ヶ月働いた木工屋の人への年賀状の送料に消えた。
入れてくれた人、ありがとう。
フロントのチェーンリングを変えたことによって、けっこうな坂道でも快調に進めるようになった。次々に現れる峠を楽々と越え、タスマニア島最北東端に向かって進む。
「タスマニアでは、どの川でも2、3投目にブラウンがつれますよ。」
とフェリー乗り場で出会った「先生」という日本人オートバイライダーが言っていたので、川があるとルアーを投げた。しかし一匹も釣れず。絶対釣れると思っていたので、晩ご飯のおかずは買っておらず、さみしい晩ご飯を食べた。
そんなおかずなしの2日間ぐらいを過ごし、北東端へ続く道の分枝点を曲がる。川が現れ、「今度こそ」とルアーを投げたがノーヒット。しかし完全に自然なままのきれいな川である。『カヌーで川下りをしたい』という思いでいっぱいになる。
夕方、風が強くなってきた。ダートで逆風なので、
10km/h前後でゆっくりと進む。空を見ると青い。驚くほど青い。この悪条件でのペダリングは普通いやになってしまうものだが、無人のダートで一人、青い空の下を走っているというだけで、楽しかった。
『今は風が強いが、明日になれば風が止むかもしれない』という願いは、牧場に生えている木を見ると、かなえられそうにない。今吹いている風の方向に極端に曲がっている。途中から道の向きが変わり、東の海辺へ向かう。こんどは追い風になり、太陽電池パネルと、僕の体が風を受け、ペダルをこがなくても進んだ。風の力だけでは足りない坂道は、バッテリーからソーラーパワーを引き出し、全くペダルをこがずに少しの間進めた。
太陽の風に乗り、峠を越えると青い海が見えた。
「TNT Magazine」という、僕のような海外貧乏旅行者のための無料の雑誌がある。フェリー乗り場で出会った日本人オートバイライダーたちが、
「元旦はCradle Mtの頂上で初日の出を拝む。」
と言っていたので、Cradle Mtを探してみた。
「OVERLAND TRACK・・・タスマニア中西部に位置するCradle Mt-Lake St.Clair国立公園には、 Cradle MtからLake St.Clairまでの70kmの山道があり、この道を歩くためにタスマニアに来る人も多く、この世界遺産地域は素晴らしい自然のままの森であり、日数は5~8日かかる。
そして、
「Lake St.Clairから出発し、OVERLAND TRACKを北へ向かって歩き、12/31にCradle Mtに登り、頂上でテントを張り、初日の出を頂上から見る。」
という出来すぎた計画が浮かんできた。元山岳部の血が騒いできた。
そうと決まれば装備が必要。タスマニア最大の町、Hobartへ向けて、ペダルを踏み込んだ。1日120km、130kmと快調に進む。タスマニアの風景は日本のようだった。ただ山があるということに感激した。
Hobartに到着し、YHAに泊まる。
夕方、晩ご飯を作っていると、日本人らしい女の子が入ってきた。日本語で、「日本人ですか?」と聞くと、「Ha?」と通り過ぎた。見た目も英語の発音も、どう見ても日本人としか思えないので、また入ってきた時に、「Where are you from?」と聞くと、「Japan」と答えた。ここで日本語を話し出すかと思えば、まだ英語でしゃべっている。
このやろう!
ようやく少し日本語をしゃべり、話をするが、
「自分はこんなに英語が出来て、現地人の友達もいてオーストラリアに溶け込んでいる。それに比べて他の日本人はだめね。いつもは日本人を無視するのだが、疲れている時(彼女は今日バスでどこかから5時間かけて帰ってきたらしい)は、しかたなく日本人と話をする。あーあ、どこへ行っても日本人ばっかり・・・」
といった意味のことを言い、また日本人(僕)に会ってしまったことにため息をついているのである。
このやろう!!
Hobartでは、アウトドアショップで$99の登山靴を買い、弾き語り第2回も行った。稼ぎは$31.44驚いた。やはりDevonportと比べると、市場の大きさが違う。
しかしこれだけ稼げれば、十分生活費になり、ソーラーパワーをアピールしながら生活費を稼ぎ、旅が出来る。大きな都市で2、3日すれば、$50は確実だろう。1日の生活費を$5におさえれば、10日間ツーリングできる。10日間走れば、1000km進める。1000km進めば次の都市に着くだろう。
ソーラーバイシクル、ギター、その他いろいろ持っていたものをYHAに残し、必要最小限の荷物だけをザックに詰め、バスでLakeSt.Clairへ。
少し歩くと、湖に出た。その奥には、特徴的なギザギザの山も見えた。土地は湿っていて、どこにでも水が湧き出ていた。ここの水はそのまま飲めるから、水を大量に持ち運ぶ必要はない。アオスジアゲハに似た蝶が飛び交っていて、すがすがしい雰囲気に包まれていた。
10日分の食料と燃料をつめた25kgのザックも、この雰囲気の中では重さを忘れるような感じだった。
楽しい楽しいで、15kmほど進み、キャンプ。このペースなら31日にCradle Mtに登るのは楽々だから、サイドトラックに入り、往復20kmぐらいのPINE VALLEYを歩くことにした。この先にはMt Acropoliceという山がある。
次の日、Mt Acropolice目指して進むが、頂上を目前にして、いきづまった。壁が登れない。少し戻ってみると、道は何本にも分かれていて(迷った人が作った道なのだろう)、どれを行けばよいのか分からない。タスマニアの山はほとんど、四角柱を束ねたような岩で構成されているので、すぐに壁に当たってしまう。地図を良く見てウロウロするが、頂上につながる道にはつながらなかった。ちょっと危険だが、無理をして、岩を登る。何とかようやくたどり着いた所は頂上ではなくノコギリ状になった山のほかのピークだった。遠くには、雪をかぶったタスマニア最高峰Mt.Ossaが見えた。
「Mt.Ossaには絶対のぼるぞ!」
次の日、一気にMt.Ossaの登り口まで歩いていき、キャンプ。
寒い寒いと朝、テントを開けると雪が降っていた。いざという時の防寒対策に、寝袋などもザックにいれ、出発。頂上から降りてくるおじさんに出会う。
「君、荷物をたくさん持って登るねえ。頂上からは何も見えなかったよ。」
さらに歩いていくと、女の子2人組に追いついた。何と、この女の子たちは、小学校と中学校の姉妹で、2人でOVERLAND TRACKを歩いているのだ。
YHAの日記帳に、日本人が
「これから最大の難関のOVERLAND TRACKに出発する。」
とたいそうな口調で書いてあったのを思い出す。
OVERLAND TRACKは実は名前の響きほど厳しいものではない。誰でも安全に歩ける70kmの山道なのだ。
二人を追い越して、頂上を目指す。途中から完全に雪の道となり、慎重につま先をさして進む。雪で視界が利かないので、また苦戦したが、頂上と思われる尖った細いピークにたどり着いた。頂上からは何も見えなかった。
引き返してみると、さっきの姉妹の姉の方が、雪のトラバースを越えた所で休んでいた。
「雪があって、私たちには危ないからここで引き返すことにしたの。妹は雪を渡る前の所で待っているわ。」
「この上からも雪があって登りにくいし、それに頂上からは何も見えなかったよ。それよりここの景色が一番いいと思うよ。ほら、雲が晴れていい眺めだ。」
慰めではない。本当に素晴らしい景色だった。
2人が歩いている所を見ると、妹の方は子ども特有の不安定で、あっちに行ったり、こっちに行ったり、こけたりしながら歩いているので、
『あそこで引き返して正解だ』
と思った。
31日まで、まだずいぶん余裕があるので、ワラビーと遊んだり、Echidnas(ハリモグラ)をつついたりして、だらだらと歩き、Cradle Mtより10kmほど手前のWater Valley Hutのキャンプ場に2日間滞在し、日記などを書いた。
29日夕方、いかにも陽気なアーノルドシュワルツェネッガーに似た人が話しかけてきた。日本語でである。Kart(加藤)という彼は、日本びいきで、日本にも来たことがあり、彼の非常食は日本のおかき!!だった。友人の左腕がない人は、ダーウィンに住んでいて、ワニに腕を食べられたらしい。アーノルドシュワルツェネッガーにクロコダイルダンディーである。
暗くなりかけたころ、僕のテントの横に、日本人のおじさんが、ヘロヘロになってやってきた。ついて早々「疲れた」「いらんもん持ってきすぎた」「・・・」「・・・」と非常にせかせかしているのだ。僕はこの時、時間に余裕がありすぎて、のんびりしていたので、しばらくこのおじさんをぼーぜんと眺めていた。
広瀬さんというこのおじさんは、自分の娘がメルボルンの人と結婚し、その相手の人が、「いい山がタスマニアにある」と言い、日本で山を20年、最近バイクに凝りだしたという広瀬さんは、このOVERLAND TRACKに来た。
始めは外国人の悪口ばかり言っていて、腹が立つぐらいだったが、本当にひどい目に会ったからだろう。英語が理解できず、バスに苦労の末やっと乗ってきてみたら、雨の日で、足の早い(長い)外人に追い抜かれ、水を買ったら炭酸水だった(味のついていない、ただ炭酸が入っただけの水。はっきり言ってまずい)。
テントの中で、ぶるぶる震えながら一晩寝て、ようやく次の日の朝、落ち着いたようだ。そんなに悪い人ではない。阪神大震災の時は、会社をほっぽり出して、バイクで神奈川から神戸へ向かい、物資運搬のボランティアをしたらしい。
荷物を見たら、確かにいらないものを大量に持っている。広瀬さんにとっては必要なものかもしれないが。
ウイスキー、醤油ビン、味噌、大量のもち、重たい三脚、カメラ、ビデオカメラ、ガイドブック多数。『三脚とガイドブックは早く捨てたい』と言っているぐらいだ。
「とにかく帰ることだけを考えて、山にも登らず、4日で縦走する予定だ」
と言っていたが、これから先の素晴らしい自然を見れば、来てよかったと思うはずだ。醤油と味噌ともちを少しもらいあさっての元旦の朝の食事に、願ってもない一品が加わった。おぞうに、もち
ありがとう広瀬さん
12月31日。
「こんなに遅くに、どうして頂上に登るんだ。その荷物は?まさか?」
「頂上でキャンプするんだ」
「ほんとか!?危険だぞ。気を付けろよ。また会おう」
Mt.Ossaに登る途中で出会い、その後計5回再会したおじさんと、最後の別れの握手をした。
強い雨が降っていたが、登っていくにつれ、雨上がりの素晴らしい景色が現れた。頂上まで登り、風の影響が少ない所を選んでテントを張った。強風でテントが飛ばされるのが恐かったが、夜になっても風はなく、ほとんど無風状態で、快適この上ない。夕暮れ時、外を見るとすごい夕焼けである。Cradle Valleyにうっすらと赤い霧がかかったようになり感動的な景色だった。
AM5:45 うっすらと赤くなった空に、突然太陽が昇ってきた。うっすらと考えていた、この旅の次なる目標がはっきりした。
「ソーラーパワーフォールディングカヌーを作る!!」
タスマニアの旅はこれからだ。
Folding SEA KAYAK製作
Launceston経由で、Hobartへ向かう。Launcestonで、バスの時間まで、バス停のすぐ近くのアウトドアショップに入り、時間をつぶしていると、日本人らしき人が入ってきた。僕は気付かなかったのだが、彼は、
「だって、山を歩いている時と同じ格好をしているからすぐ分かりました。」
と、実はOVERLAND TRACKの途中で出会った日本人単独行の若者だった。そして、こんどは、タスマニア北西部にあるターカインと呼ばれる原始の森を歩きに行くらしい。この森は、世界で最も古い森といわれているが、国立公園になっておらず、木が切られ、破壊されつつあるという。
「いやー、偶然もあるものだ!!」
と思って、店を出て5歩ほど歩くと、
「あーっ!!、広瀬さんだーっ!!!」
広瀬さんはいつもと変わらず、チェリーを食べながら、
「あーっ、ほんとに外国はいやだいやだ!」
という感じだったが、Mt.Ossaにも登ったようで、ちゃっかりOverLand Trackを楽しんできたようだった。
Hobartにあるイミグレーション(入出国管理局)に行く。
VISA延長のためだ。僕のVISAは3ヶ月の観光ビザで、残り1ヶ月半しかない。とにかく延長したいと言う。僕の英語力を理解したイミグレーションの人は、すぐに日本人の通訳を電話につないだ。
「VISAを延長するためには、あなたはオーストラリアに迷惑をかけずに生活できることを証明しなくてはいけません。お金持っていますか?」
「VISAカードで30万円おろせます。」
「ほかに銀行の預金とかは?」
「これですべてです」
急にこの通訳の人の口調が荒くなって、
「あなたっ!ユースホステル代もかかるでしょうに、どうやって生活していくのっ!!」
「僕は自転車で旅をしていて、すべてキャンプで、1日の生活費は$3~$5で、十分1年間生活できます。」
通訳がイミグレーションの人に説明する。
僕はいざとなったら、
「僕は、ギターを持っていて、いい声をしているから問題ない」
あるいは、
「僕は、ソーラーバイシクルで旅をしているのでオーストラリアのためにとてもいいことをしている」
新聞などもあるし、何とかなるだろうと思っていたが、このとっておきを出すまでもなかった。
イミグレーションの人は、
「すべて終了しました。あなたのVISAは1年になりました。」
と、パスポートにシールを貼ってくれた。
HobartのYHAでフルーツピッキングの仕事の張り紙を見つけ、Cygnetという所のYHAに向かった。
まさか正月から働いている日本人はいないだろうと思っていたが5人もいた。バーシ、ワタル、ノブ、ミエコ、ユーコ。未だに英語が聞き取りにくい僕は、オーストラリアで仕事が出きるのか心配だったのだが、日本人がいてくれてすごく助かった。しばらくの間、日本にいる時のように日本語でしゃべり、気持ちが安らいだ。
どうするべきか迷っていた。ストロベリーの仕事が休みの日に、パンフレットで見た、シーカヤックショップがあるKetteringへ行く。半日$25でレンタルして、5kmの海峡を横断して、Bruny Islandへ渡った。道路を自転車で走るのに比べたらすごい開放感があった。これでタスマニアを旅したら面白いだろうなと思った。そして、帰りにバーシに頼まれていた切手を買いにKettering郵便局に入ったらBlue Berry Farmのピッカー募集の張り紙を見つけた。
YHAのみんなに別れを告げた。短い間だったが、かきを取りに行ったり、5人のうちの2人が誕生日を迎えHappy Birthdayケーキをもらったり、面白い旅をしている日本人の話を聞けたりした。
プチ!プチ!プチ!プチ!・・・
ブルーベリーのピッキングを音で表現すると、こんな感じになるだろう。ブルーベリーは果実が数十個集まって、一つの房になっている。水をすくうような感じで両手を合わせ、その房の下に持ってきて、両親指で実を1つ1つクネクネねじってやると、ポロポロと落ちてきて、手の中に入る。実の大きさは、直径1cm~2cmぐらいで、それをバケツに一杯とって$3(TFNを持っていない僕は税金が50%もかかるのでこんなに安い)ほどである。一日朝から晩まで働いて、約7バケツ$20。そして、ブルーベリーの表面に水滴がついたまま冷蔵庫に入れると、問題があるらしく、雨の日は休日で、1週間の給料は$100前後にしかならない。
しかし、ファームには無料のキャンプサイトがあり、大型テントも貸してくれ、必要なのは食事代だけ。果物は買う必要もないし、何とかソーラーカヌーを作る資金のメドがついた。
夜明けとともに起き、ブルーベリーをほおばりながらピッキングすると言う平和な毎日を過ごしていた。
僕は他のピッカーの倍以上働いた。量は変わらないが、他のピッカーがだいたい適当にピッキングするのに対して、僕は良く熟したものとそうでないものを完璧に選別し、取り残しもほとんどなかった。そして、奉仕作業として、時々ブルーベリーを食べに入ってくるブラックバードという鳥を捕まえたりした。
ブルーベリー畑は、網に囲まれているのだが、どこからかブラックバードが入って来て、ブルーベリーを食べ荒らしてしまうのだ。捕まえる方法は、僕とヘレンさんが大きな音をたてながら、鳥を網の角に追い込み、それを素手で捕まえるか、犬に飛び掛からせる。
夕暮れ近くの午後の日差しを背に受けて、ブルーベリーをピッキングしていると、なぜか懐かしい気持ちになった。昔、昆虫少年だった頃は、夏になると毎日、このブルーベリーファームのような木々と草の中で、日が暮れるまで夢中で蝶を追ったものだった。午後の日差しと、蒸し暑さ、草のにおいと虫の鳴き声。僕のすべての原点はここにある。あの楽しかった少年時代を追い求めて、僕は旅をしているのかもしれない。
ある日、AlecとFlueというイギリスからのカップルの旅行者がやって来た。AlecはMarin Biologist(海洋生物学者)でFishmanger(魚商人)の仕事もしたことのある釣り吉である。
同じく釣り吉の僕の竿を見て、すぐに釣りに行こうということになった。仕事が休みの日、近くのOyster Coveに釣りに行く。釣り吉の考えることは、どこの国の人でも同じである。一番良さそうなポイントにわき目もそらさず一直線に歩いていき、すぐに仕掛けの用意をする。Alecは2mの振り出し竿にスプーンスピナー。僕は3mのシーバスロッドにパワーグラブ。
まずは僕がフラットヘッド(コチ)を一匹釣り上げる。いきなり40cmの大物である。Alecも釣り上げ、僕とAlecははしゃいでいたが、Flueはそんな男たちを尻目に、静かに読書にふけっていた。
「あんまり釣りは好きではないのかなあ?」
「そう。いつもAlecが釣りをしている間、私は『Bored!!(退屈)』して、本を読むの。」
ファームに戻り、Alecがさばく。プロフェッショナル魚商人である。少しだけ刺し身にし、ワサビをつけ(広瀬さんのいらんもんの一つで、貰っていた。)、あつあつご飯と一緒に食べる。感激。残りの大部分は焼いて、醤油をつけて食べた。
「Soy Sauce(ショーユ)はうまいなあ!!」
次の日、Alec,FlueはSoy Sauceを買ってきた。
僕もある日、「Worcester Shire Sauce(ウスターソース)を買ってきて、Alecに見せると、
「Worcester Shireは私たちが住んでいるEnglandの町のとなり町なんだ!」
「ウスターソースはEnglandのソースなのか?」
「そう!!ウスターソースはアンチョビ(いわし)から作るソースで、いわしには強い独特の匂いがあるんだ。!!!」
と二人は目を輝かして話した。
しかし、「ウスターソース好きか?」
と聞くと、急にしぶーい表情になり、
「いやあまり・・・」「わたしも・・・」
と沈み、ウスターソースをコミューニティーソースとして、いつもテーブルの上に置いていたにも関わらず、AlecとFlueは
「Soy Sauce is Good!!」
と、醤油ばかり使っていた。このウスターソースは2ヶ月後、僕がブルーベリーファームを去る時も新品同様だった・・・。
ブルーベリーファームで働きながら、これからどうするか考えていた。ソーラーカヌー製作を一度は決心したものの、はたして本当に作れるのだろうか?どうやって作るのか?どこで作るのか?とまだ迷っていた。
この仕事で稼いだお金で、ソーラーバイシクルの旅を続けるのか、それとも決心を貫いて、ソーラーカヌー製作を目指すか。
南半球はこれから冬に近づいていく。今の日光でも、ソーラーバイシクルはそんなに劇的な性能を発揮しているわけではなかった。それに、自転車で道をただ走る事に魅力を感じなくなっていた。もっと自由な、自然の中に入るような旅がしたい。タスマニアに来た目的も、カヌー製作に関する何かを見つけるためだったはずだ。
「ソーラーカヌーを作ろう。ここなら時間と場所がある。大学時代、狭い下宿の中で作っていたではないか。僕に出来ないはずはない。」
「自転車はカヌーの中に入れればよい。そして、トレーラーを作って、それにカヌーを乗せて自転車で引っ張ればよい。」
簡単なスケッチで、ソーラーカヌーと、自転車にトレーラーをつけた図を描いてみた。これはうまくいくに違いない。面白くなってきた。
ぼくは、この、まだ想像の段階で夢が大きく膨らんでいく時が好きだ。この段階では夢は無限の広がりを持っている。限りがないのだ。実際に、ソーラーカヌーが出来上がって、トレーラーで引っ張れても、それはもう現実なのだ。そこからまた新たな夢が広がっていくかもしれないが、もとの夢はもう無限の広がりを持たない。釣りに関しても、どんな仕掛けを使うか、どんなルアーを使うか、でかいやつが釣れるかもしれないと、家で夢見ている時が一番楽しい。たぶん僕はおかしな人間だと思うが、夢を見ている時が一番楽しい。
この時、僕が1番行ってみたい場所はタスマニア南西海岸の無人地帯だった。そこには全く道がない。すごい大自然が残っているに違いない。
作るカヌーはシーカヤック。自転車を入れなければならないから、全長6m、全幅90cmに決めた。
僕のシーカヤック歴はタスマニアKettringでのレンタル5時間だけだが、日本で少し川下りはしていたので、パドル、ライフジャケット、防水バッグは持っていた。こっちで買うと高いので、日本から送ってもらうことにした。
そのことを手紙に書いて、Kettering郵便局へ出しに行く。その時たまたま郵便物を取りに来ていたおじさんが、僕のソーラーバイシクルを見て、「これはいい」と話しかけてきた。
このソーラーバイシクルは、人を引き付ける魅力にあふれているのだ。
「この太陽電池は何Wだ?」「40W」
「電圧は?バッテリーの種類は?」「24V、鉛だ」
「モーターの極数は?」
「分からないけど、このモーターはブラシレスなんだ」
「実は、私の船にもソーラーパネルがついているんだ。」
「えっ、ほんと。ソーラーパワーボート?何に使っているの?」
「いや、動力じゃなく、バッテリー充電用に使っているんだ。」
「今晩食事どうだ?」
夕方、採れたてブルーベリーをみやげに、Ken(おじさんの名)の家へ行く。元オーストラリア海軍の彼は、電子技術者の資格を持っていて、現在はテレビやビデオ、アンテナのリペアーの仕事を自営でやっていた。
部屋の壁には、多くのヨットの写真が掛けてあった。彼はヨットマンで、これまでに4台のヨットを自分で作り、乗り換え、現在はスチール製のものを使っている。僕は、KENがはじめて作ったという、小型木製ヨットの古ぼけた写真が気に入った。KENの若かりし頃の夢が、その写真には、つまっているように見えた。
別の写真には、氷の陸地にアザラシのような動物が牙をむいている。
「この写真はどこで撮ったんですか?」
「Antarctica(南極)だ」
「ほんと?すごいなあ。南極に行ったことがあるんだ」
その時、たまたま遊びに来ていたIvanさんは言った。
「私も南極へ行ったことがあるぞ。本当は南極とオーストラリアの間にある島だが、南極のように氷の島だ。多くのオーストラリア人は南極に行ったことがあるんだ。」
南極なんて、はるか遠くのものだと思っていたが、オーストラリアではそうでもないらしい。Ketteringの北20kmぐらいの所には、「Australian Antarctic Division」という施設があり、今、南極へ行っている船の情報などを知る事が出来る。タスマニアはオーストラリア最南の町、南極に最も近いから、オーストラリアの南極へのベースになっているのだ。
さらに驚くべきことに、Kenはオーストラリア最大のヨットレース「Sydney-Hobartヨットレース」に9回も出場したことがあるのだ。そして現在は、リペアーの仕事で稼いだお金で、旅に出るという暮らしである。特にアジアによく行っている。家には多くのアジアの置物があった。
夕食は米に中国のミートボールとサラダ。
「君は何を使って食べる?スプーンかフォークか?」
ここはちょっと日本を押し出そうと、僕は
「ChopStick(はし)!!」
と言った。KENの顔が一瞬輝き、
「ChopStick!!ChopStickだね!!」
とはしを出してきた。
ファームに帰る途中、ファームのすぐ近くで、接合部が壊れかけていたソーラーパネルがぽとりと落ちた。ちょうどいいタイミングだ。これは
「ソーラーカヌーを作れ!」
ということだろう。
どんなカヌーを作るのか、条件は次の3つ。
・海での使用
・自転車が入り、さらに荷物がいっぱい入る。
・折りたためなければならない。
これらを考慮して、全長6m全幅90cmのシーカヤックの上面、側面図を何度も書き直す。
次に、どういう構造にするのか、材料は、折りたたみ方は?
構造は一般的な、フレームに防水の布をかぶせる構造にした。フレーム材料は木、テンションのかけ方も一般的な中央押し込み式。
僕は今までにオリジナルのアルミフレームのフォールディングカヌーを作ったことがある。しかし、初めて作ったフォールディングカヤックは、船体布のテンションがかけれず、大失敗だった。安定性も最悪で、初試乗の釧路川で沈しカヤックは流されてしまった。その失敗をバネにして、安定性の高いフォールディングカナディアンカヌーを作った。テンションもある程度かけることができ、多くの川を下った。
フォールディングカヌーの出来は、船体布のテンションをかけれるかどうかにかかっている。ウッドフレームにしたのはこの為だ。Hobartで見つけた「Wood&Canvas Kayak Building」という本の中に、キャンバス布を木のフレームに、釘を使って固定している写真を見た。これまで、カナディアンカヌーではガムテープでテンションをかけ、縫い合わせていたのだが、クローズドデッキのカヤックでは、どうやってテンション縫いをするか困っていた。Woodフレームなら出来る。カヤックタイプでも縫い合わせにの前にテンションをかけることが出来る。
フォールディングカヤックメーカーが、どうやって縫い合わせているのか知らない。おそらくそれぞれの面の型を取って、ミシンで縫い合わせていると思うが、一台製作のこのカヤックではそんな事は出来ない。
フレームが滑らかにつながるように考慮して、1/10scaleの設計図を書き上げ、細部を決定していった。
はじめにカヌーを運ぶための自転車につけるトレーラーを作った。そして、ファームの北20kmの所にあるMitre10というホームセンターに通い、木材、金具、工具を探した。
木は、42x12mm断面のパイン材。日本の杉やヒノキよりも重く硬い。金具はブラススクリュー。リブフレームとサイドフレームとの接合のための、軸が取り外せる丁番。工具はノコギリ、電気ドリル、メジャーなどを買った。僕は日本から小細工用のノコギリと小型かんなを持っていたがオーストラリアではこんな繊細な道具はなかなか手に入らない。ホームセンターには丸太をギコギコ切るような道具しか置いてない。しかし、オーストラリアのおおざっぱな道具も悪いことばかりではない。それは、リブフレームに使う12mm厚の合板を買った時、オーストラリアの目の荒い押し切りのこぎりを使ったのだが、信じられないぐらいスイスイ切れる。下手な電動ジグソーよりも早く真っ直ぐ切れる。
トレーラーで、パイン材、合板を運んだ。ファームの仕事が出来ない雨の日や、朝夕、少しづつ、設計図通りに作っていった。12Vの電気ドリルは太陽電池から充電した。そして、フレーム完成。次は船体布だ。
電話帳で、Canvas&Synthestic Fabricの欄を探し、Hobartへ買い出しに行く。さすがヨットマンの町Hobartだ。セイル製作所では、オーダーメイドの防水バッグも作っていて、防水バッグ用の厚い丈夫なPVC布を手に入れることが出来た。デッキにはもっと安価のポリエチレン布を買った。
タッカーを買い、PVC布をウッドフレームに張り付ける。面と面が合わさる部分を縫い合わせ、タッカー釘をニッパーで抜き取り、PVCボンドで接合部を張り合わせる。さらに、縫い目をPVCテープでふさぐ。裏返して、デッキ布も同じようにくっつける。しかし、ポリエチレンにPVCは接着できない。お金節約のために、ポリエチレン布を買ったが、もう少し奮発して、薄いPVC布を買っておくべきだった。そうすれば、完璧に防水できた。厚いPVC布は2m幅長さ1mごとに$30、ポリエチレン布は、5m幅長さ1mごとに$20、さらに汚れていたからディスカウントしてくれ、$10/mだった。
フレームを分解し、船体布から取り出して、塗装する。
カヌーを作った場所はブルーベリーファームのワーキングホリデー旅行者がキャンプできる広場の休憩テントのような所で、とてもカヌー作りをしてもいいような場所ではなかったのだが、ヘレンさんはどこの誰とも知らない外国人の僕が突然カヌーを作り始めたにもかかわらず、何も言わずに温かく見守ってくれた。それどころか町に買い出しに行くときは買ってくる材料がないか聞いてくれたり、ブルーベリーの収穫シーズンが終わり仕事がないのに滞在を許してくれ、カヌーを完成させることができた。
完成したのは4月下旬だった。当初の予定では3月に完成して、4月には出発する予定だったので、1ヶ月遅れだ。もうすぐタスマニアは冬になってしまう。
3.シーカヤックの旅へ
ボートビルダーの島タスマニア
ブルーベリーファームを出発した僕は、ここから一番近くの湾、Oyster Coveへと向かった。
『カヌーの分解は出来たが、本当に組み立てられるのだろうか?テンションはうまくかかるだろうか?』
中央分割式のカヌーを今まで作ったことも組み立てたこともなかった僕は、考えた通りにうまくいくのか不安だった。
カヌーの中央部のフレームを押し下げる。
「グググッ、ビシッ!、ググッ、ビシッ!、バシッ!!」
思わず、
「張った!、張った!!、うまいこと張った!!!」
と声を出して喜んでしまった。このタイプのカヌーを作ったことのある人なら分かると思うが、この快感はすごいものである。
『今すぐ海へ漕ぎ出したい』という気持ちをグッとこらえ、カヌーを裏返して、縫い目を止めたテープのしわによる隙間をPVCボンドで完全に埋めた。
カヌーを海面に浮かべる。緊張の一瞬。このカヌーは、これまで僕が日本で作ったカヌーとは全然違う。僕のこれからの旅がかかっているのだ。
フワリと海面に漂った真っ白のカヌーに乗り込み、パドルを海に入れ、漕ぐ。
「スピード性能、安定性、直進性と回転性のバランスは?」
市販品には遠く及ばないが、これまで僕が作ったどのフォールディングカヌーよりも全ての点で上回っていた。
始めは、いいカヌーが出来たと喜んだが、このカヌーで、これから海へ出て行き、タスマニアの海岸線を旅すると思うと、期待よりも不安の方が大きかった。海のことを何も知らないのだ。荷物を積み込み、Oyster Coveを出発。5km南のKetteringに向かう。行く手に虹が見えた。
Kettering港に入り、Kenの家へ行く。
アジア好きのKenだけあって、この時はタイからジャイという若い女性が遊びに来ていた。トウガラシの入ったタイ風ラーメンを食べながら話をする。
「これから、Southwest Coastを通って、Bathrust Harborへ行こうと思っているんだけど、何か知らないか?」
Kenは驚いて、
「Bathrust Harbor!!!」
僕の広げた地図を指して、
「ここでは4日前、波の高さが6mもあったんだぞ。6m!!」
「6mと言えばだ、この天井よりも上だ。私のヨットでも危ないんだぞ!!」
Kenの友人のシーカヤッカーDavidの家にも行き話を聞く。これまで聞いた人たちの意見と同じく、
「Southwest Coastはとても危険だ。私はBathrust Harborへ行ったことがあるが、Southwest Coastを通ってではない。飛行機にカヌーを乗せてだ。Southwest Coastはオーストラリア、いや世界でも最も荒い海の一つだ。」
僕のタスマニアマップを広げて、KenがDavidに聞く。
「このSouthportの南の海は安全か?」
「いや、ここより南はとても危険だ」
と、地図上に線を引く。
「ここはどうだろう?」「ここは大丈夫だ」
「・・・」「・・・」
と、僕の地図に多くの危険、安全地域境界線が引かれ、最後にKenが危険地域にドクロマークを入れ、タスマニア海のサバイバルマップが出来上がった。
「マサヒロ、ここより南へ行けば(ドクロマークを指して)君は死ぬぞ」
タスマニア西海岸をツーリングなんて、思いつきで計画を立てたが、僕のカヌーと実力ではどう考えても無謀な計画だった。それにタスマニアは現在冬で、冷たい海に放り出されたらもう終わりだろう。
「残念だがタスマニア西海岸はあきらめよう。それよりも、この海岸線沿いに西へ100kmほど行った所にボートビルディングスクールがある。そこに日本人の生徒が来ているという。その人に会って話を聞いてみたい。」
タスマニア南東海岸は、多くの島、複雑な海岸線があって、とても変化に富んでいる。そして、穏やかな海、豊富な魚介類があって、シーカヤッカーのパラダイスといえるかもしれない。これから旅をするのは、タスマニア本島とBruny Islandという島の間に囲まれたD’Entrecasteaux Channelという水路である。
とにかくこの海岸線を行くだけでも、安全に十分注意しないと危ない。自転車とトレーラーはかなり負担なので、Kenの家に置いていくことにした。
4月25日。オーストラリアに来てからちょうど半年。
ソーラーバイシクルからシーカヤックの旅へ。
停泊している多くの木製ヨットの間を抜けて、Kettering港を出発した。
カヌーの上から見るタスマニアはまるで別世界だった。
その乗り物でしか見えないものがある。カヌーでこうして、タスマニアの海岸を進むだけで、タスマニアの風、空、自然を非常に鋭く見ているのだ。周りの状況をよく見て、海の状態を予想しないと、命に関わってしまうからだ。
60kmほど進み、Huon Valleyに入り、Huon Riverを溯る。
ボートビルディングスクールのあるFranklinの少し手前を漕いでいると、岸でおじさんが「こっちにこい」と、手で合図している。岸に寄せる。
「このカヌー君が作ったのか?材質は何だ?変わったカヌーだなあ」
「これは、木のフレームとPVC布のフォールディングカヤックなんだ。」
「わしもカヌーを持っている。見せてあげよう。」
カヌーを岸に上げ、グラハムさんのカヌーを見に行く。
グラハムさんは、ボートビルダーだった。彼のカヌーは、HEROSHOFFという有名なボートデザイナーが何十年も前にデザインした、クリンカー構造のものだった。彼はヨットも作っていて、これもクリンカー構造だった。彼は昔ながらの伝統的な船が好きなようだった。
「Franklinのボートビルディングスクールには、日本人の生徒が来ているぞ。行ってみるといい」
Franklinまで漕ぎ、とりあえず腹が減っていたので、フードショップに入ると、少し白髪の日本人らしいおじさんがいた。
「ひょっとしてこの人かもしれない」
と思いながらパンと牛乳を買って、話しかけようと思った時にはもう店から出ていってしまわれていた。しかし、あの雰囲気はヨットマンで職人に違いない。なんとなく堀江健一さんに似ている。
スクールまで行き、日本人の生徒のことを聞いてみた。
「Yogi(日本人の生徒のニックネーム)は今日、早引きして家にいるから、送っていってあげるよ。」
JohnYoung校長にYogiさんの家まで車で送ってもらった。Yogiさんに会うと、
「あっ、やっぱり。」
「君でしたか。」
さっきフードショップで会った人だった。
Yogi、岸ヤストさんの家に入る。
「変わった日本人がいると校長から聞いていたが・・」
約一週間前、ちょうど僕がカヌーで出発した頃、急に校長が僕の話をし始めたらしい。僕が以前ここに来たのは3ヶ月以上も前なのだが、どうやら僕が出発したことがここまで伝わっていたらしい。ヨットマンのKen、シーカヤッカーのDavid、そして、エポキシ接着剤を買った店の主人はこのスクールの講師の一人なのだ。当然といえば当然かもしれない。
岸ヤストさんとスクールやボートの話をする。
岸さんは、ヨットマンで、以前ヨットの修理の仕事をやっていた。その会社は、外国の船の輸入もやっていて、ある時、欠陥のある船を輸入してしまった。リコールと言うやつで、あとで欠陥がある事が分かったのだ。その船を作った会社(外国)の職人が日本へやってきて、その人たちと一緒にその船を修理していた。
その時、彼ら(外国の職人)の技術、船に関する知識や考え方に感動した。日本の船職人とは大きくレベルが違った。
岸さんに言わせれば、
「今の日本の船職人はだめだね。木や船のことを何も分かっていない。日本の船は今、ほとんどFRP(ガラス繊維強化プラスチック)になってしまって、木を使っているのはインテリアぐらいでしょう。木造船に関しては何もない。」
「昔の日本の船大工と呼ばれた人たちは、それは素晴らしい技術を持っていて、木のことをよく理解していて、それは素晴らしい船を作っていたんですよ。しかし、みんな歳をとってしまった。今の若い人がこんな言葉を知っているかどうか知らないけど、今の30代の職人は
『たたき大工』というやつでしょう。たたいてばかりで釘が入っていかない。」
「日本の1つの文化がなくなりかけている。まあそれはオーストラリアでも同じ事かもしれないが。この学校は、そういった昔から続いてきた木造船を作るという文化を伝えていこうという学校なんです。」
「この学校に来ている生徒はみんなレベルが高いよ。この生徒たちをそのまま日本へ連れていっても十分通用する。もしかしたら、日本のプロよりもレベルが高いかもしれないね。」
日本の道具を使っているのか聞いてみた。
「いや、日本の鉋とかノミとかは難しくてねえ。使うのも難しいし、砥ぐのも難しい。こっち(西洋)の道具は、誰でも簡単に使えて、砥ぐのも楽でねえ。実に合理的に作ってある。日本の道具はもちろん使いこなせれば、すごくいいが難しいねえ。ただ、ノコギリは、ここの校長も細かい作業をする時、私に貸してくれと言ってくるんですよ。」
スクール事情。
「いやー、本当に忙しい。こうして同じ場所で何時間も話しているなんて、ここに来てから初めてじゃないかなあ。この前、林の中に入って、木の伐採からしてこのイスを作ったよ。木の皮を剥ぐ道具があって、生木の皮を剥いでねえ。その時水が飛んでくる。これまで何十年も木に関わってきたが、いかに生木が水分を含んでいるかということを初めて知って、ちょっと感動したよ。このイスは基本的には接着剤を使わないで作るんですよ。木の収縮率の違いを利用して、乾いたらもう取れないというようにするんですよ。」
「ここの人は、FRPの船を船と思っていないようだねえ。」
確かに、今まで多くの船を見たが、ほとんど木造船だった。
「しかし、よくやるねえ。カヌーをブルーベリーファームで作るとは。もっとも、私も若い時はそんなことをしていたけど。」
このボートビルディングスクール(ShipWright Point School of Wooden Boat Building)があるHuonValleyは、タスマニアのボートビルダーのふるさとである。
西暦1800年頃、ヨーロッパからの移民が船に乗ってやってきた時、起伏が激しいタスマニアの交通手段は船に頼るところが大きかった。船大工たちはタスマニアにある木で船を作る必要があった。Huon Pineという木がある。この木のことを説明する。
Huon Pineは最も古いもので樹齢2000年を超えるという世界最古の木の一種である。成長スピードは遅く、直径1mの幹の中に1000年の歴史が刻まれている。最近では、地球温暖化の傾向を調べるために、この年輪のタイムカプセルが利用されているという。
成長が遅い分、年輪は緻密で、繊維もまっすぐで、非常に均一な材木となり、正確な加工が簡単にでき、狂いも少なく、その上丈夫な材料なので、あらゆる用途に使われている。世界でもっとも理想的な木の1種である。
さらに、Huon Pineはメチルオイゲノールというオイル成分を多く含んでいて、水分に対して非常に強いのだ。
すなわち、Huon Pineは世界No.1と言ってもいいぐらいのボートビルディングに最適な木なのだ。
このHuon PIneが生えている地域は、タスマニア西部、南西部の雨林地域のみ。Huon Valleyは最初の移民がすみはじめた地域(Hobart付近)のもっとも西側に位置し、
Huon Pineの雨林に最も近かったのだ。それで、このHuon Valleyに多くのボートビルダーが住み着いたというわけだ。
岸さんと娘さんに見送られ、Franklinを出発。
Huon Riverの中州のEgg Islandにキャンプ地を探す。しかし、アシばかりで、乾いた地面はなかった。もう暗くなっていたので、アシの原の奥に入り込み、野鳥の寝場所と思われる、丸く開けた場所にカヌーを止め、アシの草にひもを結んだ。
太陽が沈んでいく。水面に浮かんだまま見る夕暮れもいいものだ。アシの原の中で1人、ぽつんと夕暮れに染まっていった。
カヌーの中にマットを敷き、寝袋に入って寝転ぶ。何とかカヌーの中に完全に体を入れることが出来たが、ほとんど身動きが取れない。結構きついものだ。
「今度カヌーを作る時は、絶対カヌーの中で寝ることを考えて作ろう。」
朝、目覚めると完全に霧の中にいた。真っ白の霧に包まれたアシの原に1人、カヌーの中にいた僕は、おとぎ話の世界にいるような気がした。
コンパスを頼りに、進む。
Ketteringに戻ることにした。8kmの海峡を横断して、Bruny Islandへ渡る。Bruny Islandは素晴らしい島だった。
海岸にはアワビがどこにでもいた。
「これで3日は飽きずに食事が出来る!」
魚も釣って、アワビご飯と焼きアワビ。
ここからわずか8kmの海を隔てた対岸は、恐怖のカキがびっしり海岸だが、ここはアワビと昆布の海岸だった。
この時、僕は完全なカキぎらいになっていて、カキを見ると「おえっ」となり、カキとは腹が減って死にそうな時に食べる非常食となっていた。
アワビは採るのも簡単(カキは岩にへばりついてなかなか採れない)
焼くのも安全(カキは殻を火に入れると爆発する)
歯ごたえもある(カキはふにゃふにゃだ)
カヌー長持ち(カキで船底をこすると切れる)
といいことずくめの食べ物だった。
アワビ3日目で予定通り飽きて、次の日、大きな砂浜を通る。
「なんか他の食べ物ないかなあー」
と、遠浅の海の底を見ながらパドリングする。小さなカニが歩いていた。
「おっ!カニか。うまそうやなあ」
頭の中ではカニの味噌汁が出来上がっていた。エイが泳いでいた。
「おえっ、なんか毒持ってそうやなあ」
これは除外除外。海の砂が白くなってきた。よく見ると、何やら2枚貝の殻が大量に散らばっている。
「これは、まさか!」
砂を掘ってみると、出るは出るはアサリがザクザク。
アサリの殻で水中、ビーチとも真っ白のとてもきれいな砂浜でキャンプした。
出発。めずらしくよく太陽が照り、そよ風が吹いている中、この真っ白の遠浅の海を行くのはとても気持ちがよかった。
目を閉じてみる。なんて気持ちがいいのだ。目を閉じていても、肌に感じる太陽のぬくもりで、進んでいる方向が分かる。太陽が照っているというだけで、こんなに豊かな気持ちになれる。
太陽電池は素晴らしい。その他、さまざまな太陽エネルギーを利用したものも素晴らしい。しかし、何W発電したとか、湯が温かくなったとか、そんな物質的なものよりも、この精神的豊かさこそが太陽エネルギーの最も素晴らしいものではないか。精神的エネルギーを与えてくれる。
最終日、初めて2台のシーカヤッカーがこちらに向かってくるのを見つける。あいさつすると、
「自転車に戻るのか?」
Davidと彼の息子だった。
「Kenの家へ行って温まって温かい食べ物をもらえよ。」
5kmの水路を横断して、Ketteringに戻った。
GordonRiverのブラウントラウト
「マサヒロー!マサヒロー!」
Kettering港に入港した僕の名を誰かが呼んでいる。
「Ken!]
偶然なのか知っていたのか分からないが、Kenが出迎えてくれた。
「マサヒロ、無事だったか。てっきり死んだと思っていたぞ。1週間に1度電話すると言ったじゃないか。」
「ごめん、忘れてた。」
「1週間電話がなく、8日目、9日目、10日目と待ったが電話がないので、11日目にポリスに探してくれと電話したんだぞ。ポリスも『マサヒロは死んだだろう』と言ってきたぞ。」
「ポリス!?そういえばBruny Islandでポリスに会ったんだ。」
「ポリスは君の名前とか何か尋ねたか?」
「そう、名前とかいろいろ聞かれた。」
「昼食を作ってあげるから、私の家の海岸にカヤックを漕ぎ着けて家に来いよ。30分後だ。」
ジャイが作ったタイチリラーメンを食べる。冷えきった体にチリは最高だ。すぐに汗が吹き出すほど暖まった。
数日間Kenの家で過ごすことにした。毎日ジャイが作るタイ料理を食べ、夜はKenの息子のロスが借りてきたビデオを見た。
ある日、この4人でジャイの作った料理を食べる。ジャイが出してきた乾燥チリのビンから、ロスが1本丸ごとのチリをつかんでバリバリと料理にふりかけた。1mm四方のかけらを3片も入れれば十分辛いのに、大量にふりかけられたチリを見て、僕は言った。
「ロス、そんなにかけて辛くはないのか?」
「ああ、俺はチリが好きなんだ。残りの半分をやるよ。」
と、半分になった乾燥チリを僕に渡した。僕は恐る恐る3片だけをふりかけた。
チリで赤く染まった料理を食べているロスを見て、
「すごいなあ」
と感心していたが、次第にロスの口数が減ってきて、汗が吹き出し、水をガブ飲みし、最後にはふりかけたチリの破片を1つ1つ取り除きはじめた。
「知らなかった。こんなに辛いとは・・・」
ロスは今まで1度も乾燥チリを使っていなかったのだった。
このD’Entrecasteaux Channelの旅の途中、ソーラーパワー推進装置として、カヌーの後部スターン部分に、魚の尾びれのような良くしなるフィンをつけ、モーターの回転をクランクで往復運動に変換して、どのくらい進めるのか試していた。一応進むことは出来たのだが、効率が悪く、よほど良くデザインしないと、とても実用的とは言えないものだった。そのことをKenに話すと、
「マサヒロ、セイル欲しいか?モーターとバッテリーは重すぎるだろう。軽量にしないといけないぞ。」
ヨットマンのKenにしてみれば、
「なぜセイリングしないのだ」
というのは当然だろう。確かにそうだ。もうほとんど日が照らない冬で、代わりに風が強い。ソーラーパワーカヌーへのこだわりはあるが、ここは一つウインドパワーで旅をしてみるのも面白いかもしれない。ウインドパワーで旅をすることによって見えてくるものがあるに違いない。
次の日、セイリングリグを作る。
Kenが2分割になるマスト、
ジャイがセイルを、
僕がカヤックにマストを取り付けるための穴をあけた。
タスマニアを去る前にどうしても行ってみたい場所はやはりタスマニア西海岸だった。人を寄せ付けない西海岸とはどんなところなのか。せめて一部分だけでも行ってみたい。僕のカヌーと実力で行けそうな、西海岸を感じることの出来る場所は、計画のルートの一つだったMacquarie Harborとこの湾に流れ込んでいるGordon Riverだった。
Macquarie Harborは琵琶湖を一回り小さくしたぐらいの大きさの、西海岸につながる湾で、湾の北にある唯一の村Strahan以外は、完全な無人地帯である。そして、Gordon Riverは湾の最奥部に流れ込んでいて、Franklin-Gordon rivers National Parkに属する世界遺産地域である。
今回はStrahanから出発し、湾を1周する旅だ。途中にあるGordon Riverを溯るので、出来るだけ軽装で行きたい。荷物を厳選し、バスでStrahanへ向かった。
峠を越えると、そこは雨の降る西海岸であった。
タスマニア東部と、山脈を挟んだ西部とでは冬の気候がまるっきり違うのだ。僕が西海岸で3週間毎日、雨の中パドルを漕いでいた時、東海岸ではほとんど雨が降らず、Kenの家では水不足で困っていたのだ(タスマニアの多くの家では、雨水を飲料水にしている。)。
Strahanに到着し、カヤックを組み立てる。Macquarie Harborは黒い雲に覆われ、暴風雨が吹いていた。風が弱まるのを待って出発。Oyster Coveを出発した時と同じく、虹が僕を奥地へと誘っていた。
さっそくセイリングを試みる。いい風が吹くと、パドリングと同じぐらいのスピードが出た。しかし風は吹いたり止んだりで安定しない。しばらくして、風は強くなり、セイルが大きく風をはらみ、カヌーは相当なスピードで進みだした。
同じく自然エネルギーで進むソーラーパワービークルではあまり感じられない自然との一体感があった。風になったような気分だ。
風が強いということは、海が荒れるということである。
セイリングはバクチだ。危険な状況においてのみ、その力が最大限発揮できる。対照的に、ソーラーパワーが力を発揮するのは良く晴れたいい天気の日である。
海が荒れだした。岸の近くなのだが、悪いことにこの辺りは岩石地帯で上陸できる場所がない。さらに水面にはいくつもの岩が飛び出しており、水中には危険な隠れ岩が潜んでいた。何とか上陸できる場所を早く探そうと先を急ぐが、大波をかぶり多量の水が入ってきてしまった。
「しまった!」
突き出た岩の後ろに逃げ込み、岩を波よけにして排水しようとするが、岩だらけの岩石地帯なので常にパドルで船を操作して定位置に保っておかないと岩に激突する。もう一度大波をかぶれば、船の喫水が下がり、次々に波をかぶって、沈むかもしれない。
失敗は許されない。岩のない沖に出て、来る波と平行になるようカヌーを操作し、崩れてきた波に体重移動でカヌーの船底を向け、波がデッキの開口部に入らないようにして進む。
やっと見つけた静かな湾を見て安心したとたん、大波をかぶって1/3ぐらい浸水した。喫水が下がり、波が次々に入ってきたが、沈む寸前で何とか上陸できた。
「危なかった。この無人地帯でカヌーが沈んだら、死んでしまうかもしれない。」
次の日、昨日のことがうそのように静まり返った鏡面の海を行く。空にはいつもどこかに雨雲があり、太陽も照っているので、視界にはいつも虹があった。西海岸から雨雲が押し寄せてくるのが良く分かる。時々、雨雲がある距離をおいて2つ同じ方向にあるので2重の輪になった虹を見る。
3日でGordon River河口へ到着。少し溯り、キャンプ地を探すが、川の両岸とも岸ぎりぎりまで深い森に覆われ、倒木、沈木が岸を埋め、なかなか良さそうなところはなかった。水草の生い茂る奥にカヌーを突っ込み、ようやくじめじめと湿ったわずかなスペースを見つけた。地面を踏むと水がじわーっとしみ出てくる。
タスマニア西海岸は水の国である。
夜、聞こえてくる音は木から水がしたたる音だけだ。
風の音や、鳥や動物たちの声も聞こえない。そして、水の上にテントを張って寝ているのに、なぜか温かいのだ。この深い森が体温をもった生き物のように思えた。
「この安堵感はなんだ。まさに深い森が守ってくれているという感じだ。鳥や動物たちも安心して眠っているのだろうか。」
「天空の城ラピュタ」のモデルになったという、ここタスマニアだが、この日はそれを実感した。
朝になると、鳥たちのさえずりが聞こえた。
素晴らしくいい天気になり、水面にはしわ1つなく、景色が完全に反射していて、まるで空に浮かんでいるような錯覚に陥った。この川がこれだけ反射するのは、川の水が褐色がかっているためだろう。これは朽ちた木が水に溶け込んだためである。
川を溯っていくと、何やら人工物らしき物が見え、目を凝らすと人のようだ。近づくと、かわいい女の子が岸で手を振っていた。
「ようこそ。すごい!どこから来たの?」
「Strahanからカヌーを漕いできたんだ。」
「ほんと!コーヒーでも飲まない?」
「Joe!お客さんよ!」
ここにはハット(誰でも無料で使うことの出来る小屋)
があり、イスラエル人の写真家Joeとアメリカ人Dianaさんはこの辺りの動物や、風景撮影のため、ここに滞在していたのだ。
「川の反射すごいですねえ」
「君はラッキーだよ。私たちは2ヶ月もここにいたけど、こんなにいい天気は3、4日しかなかった。ほとんど毎日雨だったなあ。」
「カヌーに釣竿があったけど、何か釣れた?」
「No Fish!」
「この川の河口付近でレインボーの大物が釣れるんだが、シーズンは終わってしまったよ。あと、夜にミミズをぶら下げておけば、ウナギも釣れるんだ。Macquarie Harborには、サーモンもいるんだ」
「サーモン!」
「Macquarie Harborにはサーモンの養殖場があって、そこから逃げ出したサーモンなんだ。この前、誰かが養殖場に網を打って、50分で300匹のサーモンを密漁したらしぞ。」
「昨日はどこにキャンプしたんだ。」
「すぐ近くの川岸なんだけど、とてもWet!だった。」
「君の地図を見せてくれないか?」
Joeにこれから先の情報、キャンプ可能な場所を教えてもらい、Dianaさんに手作りチョコチップクッキーをもらって出発。
岸近くを進んでいると、何やら茶色いものが水面に波紋を残して水中に潜った。ブラウントラウトか?釣竿を出して、探りながら進む。また茶色いものが水面でウロウロしている。どうやらブラウンではない。Platypus(カモノハシ)のようだ。少し離れたところから双眼鏡で観察すると、水中に潜ったり、水面に出てきたりしながらヒョコヒョコと対岸に泳いでいった。
河口から35kmほど溯ったところで、両岸はかなり狭まり初めての瀬が現れた。水量が多く、すごい勢いの流れになっていて、ここより上流に行くことを断念。引き返すことにした。
川を溯っていた時は、次々に現れる新しい世界に心おどらせながらパドルを漕いでいたが、引き返すとなると、あまり面白くなく、それに1つ心残りなのは、まだ1匹も魚を釣っていないということだった。いったい魚はどこへ行ってしまったのだろう。本流はもうだめなのだろうか。支流に入ろうにも、沈木倒木が行く手を防ぎ上流にいけない。
カヌーを方向転換させ、川の流れに乗って下っていく。
次第に向かい風が強くなってきて、パドリングを始めるが、暴強雨になりほとんど進まなくなった。この辺りは、川を溯っていた時、鏡面でカモノハシを探しながらのんびり漕いで、楽々上流まで行けた所なのだが、今度は川を下っているのに景色どころか進むのさえも難しい。
フルーツケーキでエネルギーを補充しながら、力いっぱい漕ぐ。そして、この強風の中、新たな発見をした。
「もし、これが上流に進む時なら、追い風に乗って漕がなくても楽々進めただろう。」
「そうだ、これがセイリング、ウインドパワーの特徴だ。太陽、ソーラーパワーも不安定ではあるがこれほどではない。風はぴたりと止まったり、強風になったり、追い風、向かい風と、めまぐるしく変わる。」
さらに強風の中考えた。
「セイルは棒2本と布切れ1枚、これほど単純なものがあるだろうかと思うほど単純だ。そして、身軽で邪魔にならない。対して、太陽電池は最新の半導体工学を駆使して作られた非常に高度なものだ。そして、モーター、バッテリーと重く、今のところかなり負担になる。」
「セイルは風の強さ、向きによっては小さな布切れから何馬力という出力を出すこともある。しかし、それはかなり不安定だ。太陽電池は太陽が出れば、だいたい決まった出力を出し、それほど大きな変化はない。」
「セイル、太陽電池を人間、出力エネルギーをお金にたとえると、セイルは今の僕のように定職を持たず、フラフラしていて、しかし身軽で、時にはバクチで大もうけするが、一文無しになったりという非常に不安定な人生だ。対して、太陽電池はコツコツとまじめに働き、毎月少しずつ貯金し、自由はないが、いざという時には貯金(バッテリー)から困難を切り抜けることもでき、非常に安定した人生を歩むようなものだ。」
「どちらがいいか?どちらも必要だろう。」
こんな事を考えていると、なんだか楽しくなってきて、思わずにやけてしまった。
強風で進めないので、支流のLittle Eagle Creekに逃げ込む。この支流は溯ると、すぐに渓谷状になり、日本の渓流のようになった。Gordon Riverに来て以来、初めて石ころの河原にテントを張る。
朝、テントの入り口を開けると、目の前3mぐらいのところの浅瀬で、30cmぐらいのブラウントラウトが2匹、並んで泳いでいる。観察していると、時々、川底に体をぶつけたり、お互いにぶつかったりして、下流に流されそうになると、力いっぱい体をくねらせて、また同じ所に戻ってきて並んで、それを繰り返している。
「これはひょっとして、産卵ではないのか?」
魚を釣りたいという欲求も忘れて、1時間ぐらい観察していた。そして、最後に、疲れきったというような感じで、少し流れの緩やかな所で休んだ後、沈木の奥へ消えていった。しばらくして、小さな他の魚が産卵場所に来て、ウロウロしている。さっきの2匹のうちの1匹が慌てて戻ってきて、その魚を追い払った。僕がテントから出ると、また慌てて戻ってきたが、さすがにこちらがデカイので、沈木の奥にまた消えていった。
この大自然の中の小川で、何度も下流に流されそうになりながら、その度に力いっぱい体をくねらせて、オスとメスが子孫を残そうとしている。その一生懸命な姿に、感動したというよりは、うらやましさを感じた。僕は、いつも孤独で、守るべき人がいるわけでもなく、ただ1人放浪しているのだ。
「おそらく産卵期だから、禁漁期かもしれないが1匹だけでも」
と上流に向かって歩く。沈木倒木が多くキャストするのが難しいが、次第に開けてきて、大きな淵まで来た。これ以上奥に行くには川を泳ぐか大きく林の中をまいていかなければならない。その大きな淵にスピナーを投げる。
出来るだけ遠くに飛ばすために、わざと岩に当てたりして5投目、ググッときた。
別にそんなに大きくなく、引きも強くない普通の30cmのブラウンだったが、これほど感激した1匹はない。
3ヶ月苦労して、ブルーベリーファームで働き、カヌーを作り、Macquarie Harborを渡って、Gordon Riverを溯り、さらにその支流の上流の最奥部でようやく手にした1匹。Gordon Riverのブラウントラウト。
支流から出てさらに下っていくと、河口付近で大きなヨットが停泊していた。
「何をしてるんですか?」
「Huon Pineを引き上げているんだ」
このGordon River流域は、Huon Pineの森である。上流から流されてきたHuon Pineは、この河口付近に沈んでいるのだ。現在Huon Pineの森の80%は保護されていて、その伐採は厳しく管理されている。クラフトマンたちが利用しているHuon Pineはこうした流木や倒木である。
Macquarie Harborに出た。湾の南の海岸を進む。
西の空が暗いなあと思って、見ると、渦を巻いたすごい様相をした雲がこっちに向かってくる。「ラピュタの低気圧」といった方がふさわしい。
ラピュタの低気圧が近づいてくるにつれ、風が強くなってきた。
「これはやばいぞ。早く上陸しないと危ない!」
近くにあったSarah Islandに逃げ込む。暴風雨が去ったあと、僕は廃虚の島を目撃した。ラピュタの神殿・・ではない。
驚くべきことに、現在木が生い茂り、廃虚がその中に残るこの島は、百数十年前、木が一本もなく、その代わりに、数百人の人が住んでいたというのだ。その住んでいた人というのは囚人である。この島は監獄の島。
タスマニア西海岸の荒々しい気候と地形。人を拒むこの自然環境は囚人たちを閉じ込めておくのにちょうど良かったのだ。囚人たちが脱走したとしても、この深い森の険しい西海岸をぬけて東海岸にたどり着くことは不可能に近く、船を作って海から脱走しようとしても、Macquarie Harborを出ると、そこは世界一荒いタスマニア西海岸の海なのだ。よほど高性能な船を作る技術を持っていなければ、生き延びることは出来ない。Macquarie Harborとタスマニア西海岸の海とをつなぐ水路は、Hell’s Gate(地獄の扉)という名がついている。百数十年前、多くの囚人たちがここから地獄に落ちたのだろう。
Sarah Islandの切り立った崖の上に崩れた監獄の近くの海は、異様なうねりが複雑に動いていて恐ろしい。このうねりの中
「アルカトラズからの脱出」
という心境で、Sarah Islandを脱出した。
この先、Strahanに戻るためにはHell’s Gateを横断しなければならない。写真家Joeは
「Hell’s Gateは気をつけた方がいい。」
と言っていた。生きてStrahanに帰れるだろうか。ちょっと不安になってきていた。
毎日雨の中を漕ぎ、Hell’s Gateへ向かう。途中、養魚場の水上ハウスがあり、カヌーを横付けして上がる。
「Davidだ。コーヒー一杯どうだ?」
水上ハウスの中に入り、話をする。
「Hell’s Gateは危険なんだろうか?」
「いや、そんなに危険ではないぞ。ただ、潮の流れが速いから、へたをするとBig SurfとReefの危険な海へ流されてしまう。」
Davidの双眼鏡で、Hell’s Gateを見る。けっこう白波が立っている。
「今日はちょっと波があるなあ。わしのアウトボードの船では全然問題ないが、カヌーで行くならもっといい天気の日にした方がいいな。」
「どんな魚を育てているんですか?」
「Atlantic SalmonとRainbow Troutだ。君は日本人だな。1週間ほど前に日本人のビジネスマンが魚の買い付けに来たぞ。日本人は魚が好きだなあ。」
「確かに。たくさんの日本人は釣りをするんだ。」
「わしはイギリスから来たんだが、イギリス人も魚が好きでなあ。しかし、オーストラリア人はそうではないようだな。」
「Gordon Riverの支流で、ブラウントラウトの産卵を見たんだけど、今は産卵期なんですか?」
「ほう、それは珍しいものを見たな。タスマニアのほとんどの川ではブラウンは産卵していなくて、稚魚を放流しているんだ。Gordon Riverでは確かに自然繁殖しているらしいぞ。」
水上ハウスの中には、1・5mぐらいの大きさのイルカの形をした木の置物が飾ってあった。
「すごいなあ。これあなたが作ったんですか?」
「そうだ。ここにはHuon Pineの流木がたくさんあるから、それを拾って来て、削って作るんだ。Huon Pineは油分が多いから、一度に削ってしまうと、ひび割れが出来てしまう。この置物を削るのに、少し削っては乾かし、また削っては乾かすという繰り返しで6ヶ月もかかったんだ。」
タスマニアの伝統の一つは、こうした精密な木工加工技術を持つ職人が多くいることだ。ボートビルダーと同じように、すべては、Huon Pineから始まっているのかもしれない。
Macquarie Harborの最も西に位置する入り江でキャンプする。ここから西海岸の海へ続く山道があり、次の日、歩いて行ってみた。
タスマニア西海岸はものすごい海だった。この日は1週間ぶりのいい天気(と言っても曇っているが)なのだが、波高5mぐらい、沖でも波が崩れ、岸の岩場では10mぐらいの高さで岩に打ちつけていた。西からやってくる風もすさまじい。
Macquarie Harborではいつも西の方からゴーッという不気味な轟音が聞こえてくるのだが、その訳が良く理解できた。
カヌーに戻り、出発。今日のこのいい天気を逃すと、悪天候の中Hell’s Gateを渡らなくてはならなくなるかもしれない。これ以上の天気は今のタスマニア西海岸では望めないというぐらい穏やかなHell’sGateを横断。約1時間後、空は暗くなり、西海岸の波が砕ける音も大きくなり、黒い雨雲に包まれて見えなくなったHell’s Gate、David の水上ハウスを後にして、Strahanへ向かった。